戦後70年 私の戦争体験(7)

玉音放送と日本の敗戦

赤羽で空爆にあい母は慌てて私を常鑑寺に送り届ける際、お盆でしたので母の郷里の桐生に立ち寄り、母の妹の家に一泊しました。
その翌日の8月15日の正午、天皇玉音放送があるからと、近くの家のラジオの前に近所の人が集まりました。初めて聞く”生き神様”天皇陛下の声、それが敗戦の知らせだったということは後で分かりました。
私は驚きというより、これで怖い戦争から解放されたという、安堵の気持ちがこみ上げてきました。周囲の大人たちも、同じようにこの事態を受け止めている様子でした。

敗戦から2か月後の10月、学童疎開から待ちに待った赤羽に帰ってきました。上野駅の地下道には、戦災で孤児になった子どもたちが、通路をふさぐように横たわっていました。上野から赤羽までの山手線の窓から見えた光景は、見渡す限りの黒い焼野原でした。



戦後、赤羽銀座も商店が戻り、赤羽映画劇場も戦後の映画が復活し、「りんごの唄」で人気歌手になった並木路子さんの映画を見る観客で賑わいましたが、赤羽駅前に出来た戦後のヤミ市から発展した駅前商店街が赤羽の商業の中心地になっていきました。

父は戦時中の企業整備で店を閉鎖され、履物店の将来や戦後の復興に意欲を失い、私たち家族は一年後に、両親の郷里である桐生に転居しました。私は小学校4年生になっていました。



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