戦後70年 私の戦争体験(5)

学童疎開

東京大空襲に慌てて、一斉に学童疎開が開始されました。赤羽国民学校でも3月の終わり、群馬県勢多郡黒保根村水沼(現在は桐生市黒保根町水沼)の常(じょう)鑑寺(かんじ)に3年生から5年生までの40数名が疎開しました。私はまだ3年生でした。

常鑑寺は足尾銅山から山あいを縫って流れる渡良瀬川の上流で、当時は足尾線(現在はわたらせ渓谷鉄道)の水沼駅から続く坂道を上って、さらに数十段もあろうかと思われる急な石段を登った山の中腹にありました。常鑑寺の本堂の回廊からは、渡良瀬川水沼駅が眼下に見え、蒸気機関車が白い煙を吐いて通り過ぎて行きました。
引率の先生が2人、寮母さんが2人、お寺の本堂が疎開児童たちの生活の場になりました。朝6時になると和尚さんの勤行が始まり、もくぎょの音が起床の合図になりました。食事はだんだん少なくなり、水っぽいおかゆと梅干が一つ入ったアルミの弁当箱を前に、「箸(はし)とらば、天土(あめつち)御代(みよ)の御恵(おんめぐ)み、君(きみ)と親との御恩(ごおん)味(あじ)わえ」と唱和してから食べました。「君(きみ)」とは天皇のことです。


学童疎開の生活を一言で表わせば「空腹と虱(しらみ)と母恋し」です。夜になると虱のかゆさに悩まされながら、母恋しさに布団の中で泣きました。昼間は夏の炎天下で農家の畑の草取りや薪運びの作業をし、農家が用意してくれるさつま芋やじゃが芋のおやつと、帰り道、桑の実を見つけて頬張るのが何よりの楽しみでした。
たまに地元の小学校に行き、裁縫室の和室で勉強をしたり、童謡の「お山の杉の子」の合唱やお遊戯をしました。
「♪昔、昔、その昔、椎(しいの)木林(きばやし)のすぐそばに、小さなお山があったとさ、あったとさ♪」で始まる、当時の子どもの愛唱歌が軍歌だったということは、戦後になって知りました。

夕方、ぼんやりと回廊にたたずみ、水沼駅を通り過ぎて行く汽車を眺めて「おかあさ〜ん」と心の中で何度叫んだことでしょう。とうとう男の子と女の子が、それぞれに線路を走って脱走した事件がありました。


『戦争のなかのこどもたち』 前編
https://www.youtube.com/watch?v=v5aUx9gNM7Q




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