戦後70年 私の戦争体験(6)

●赤羽大空襲

私たちが学童疎開に発った後の、4月13日の夜、赤羽に大空襲があり、駅を中心に町の大部分が焼かれましたが、赤羽国民学校と赤羽銀座は免れました。私の家も焼けずに残りました。
それは周辺の家屋が、1943年(昭和18年)の国の防空対策で、焼夷弾攻撃から家屋の延焼をふせぐため、過密地帯の住居を「強制疎開」により、取り壊されていたためです。

8月のお盆が近づき、時々、赤羽国民学校からの物資を学童疎開先に届けに来ていた母が、疎開先での子どもの窮状を見かねて、私を連れて赤羽に一時帰宅しました。学童疎開の子どもたちは空腹から栄養失調になり、ガリガリに痩せていました。私は久しぶりにお腹を壊すほどご馳走(といっても、すいとんやジャガイモ類の代用食)を食べました。

赤羽1丁目の自宅に帰宅中の8月10日、午前10時頃のことです。突然、空襲警報のサイレンが鳴った途端、頭上をバリバリという轟音(ごうおん)と共に、地面が裂けるかと思うほどの激しい振動に逃げる間もなく、母と私はかろうじて布団をかぶり、お題目を唱えていました。その時は死を覚悟しました。
1時間ばかり続いたでしょうか。B29の空爆のあと外に出て、米機が落していったビラを拾いました。ビラには広島に原爆を落としたことが書かれていました。大人たちは広島に「新型爆弾」が落されたと噂をしていました。


爆撃を受けたのは、赤羽駅近くの高台(現在の赤羽台、桐ヶ丘団地周辺)に集中する軍の施設で、B29など150機が襲来し、赤羽を中心に王子や十条などの北区域に死者152人、重傷者144人を出しました。
後で知ったことですが、赤羽は陸軍の工兵隊や被服工廠・火薬庫・兵器庫等、軍の関連施設が集中している「軍都」として栄えた町でした。




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