戦後70年 私の戦争体験(8)

●あたらしい憲法のはなし

私が中学生になった昭和24年、戦後の民主主義教育も軌道に乗り始めた頃、中学生になって一番初めに手にした教科書が社会科の『あたらしい憲法のはなし』でした。B6版の薄い冊子で表紙には国会議事堂が色刷りされていました。

この頃は読みたくても身近に雑誌や小説などがなく、私は新しい教科書を手にすると、さっそく開いて読みました。中でも社会科の教科書が好きで、特に『あたらしい憲法のはなし』は声を出して朗読しました。一つには社会科の先生が熱意を持って魅力的な授業をしてくださったからでした。
私はこの教科書によって、「平和」や「民主主義」や「主権在民」などの理念をしっかり学んだように思います。何よりも日本が「戦争放棄」したことを知り、子ども心に深く感動しました。それは東京の赤羽と学童疎開で体験した、暗い戦時体制と恐ろしい空襲から解放されて、新しい平和な時代が来たんだということが実感できたからです。


それから40年後、私はある機会で『あたらしい憲法のはなし』の復刻版を手に入れることができました。ページを開くと、文章や挿絵の一つ一つに記憶がありました。そして復刻版の「あとがき」にはこんな言葉がしるされてありました。

「『あたらしい憲法のはなし』は、日本国憲法が公布されて10か月後の昭和22年8月、文部省によって発行され、全国の中学生が、1年生の教科書として学んだものです。それは、当時の中学生だけでなく、”教え子をわが子をふたたび戦場に送るな”と誓い合い、新しい平和と民主主義の教育への熱意にもえていた教師、父母に深い感動とあかるい希望をよびおこしました。」

しかし、この教科書はなぜか2、3年使われただけで、教室から姿を消してしまったのです。



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戦後70年 私の戦争体験(7)

玉音放送と日本の敗戦

赤羽で空爆にあい母は慌てて私を常鑑寺に送り届ける際、お盆でしたので母の郷里の桐生に立ち寄り、母の妹の家に一泊しました。
その翌日の8月15日の正午、天皇玉音放送があるからと、近くの家のラジオの前に近所の人が集まりました。初めて聞く”生き神様”天皇陛下の声、それが敗戦の知らせだったということは後で分かりました。
私は驚きというより、これで怖い戦争から解放されたという、安堵の気持ちがこみ上げてきました。周囲の大人たちも、同じようにこの事態を受け止めている様子でした。

敗戦から2か月後の10月、学童疎開から待ちに待った赤羽に帰ってきました。上野駅の地下道には、戦災で孤児になった子どもたちが、通路をふさぐように横たわっていました。上野から赤羽までの山手線の窓から見えた光景は、見渡す限りの黒い焼野原でした。



戦後、赤羽銀座も商店が戻り、赤羽映画劇場も戦後の映画が復活し、「りんごの唄」で人気歌手になった並木路子さんの映画を見る観客で賑わいましたが、赤羽駅前に出来た戦後のヤミ市から発展した駅前商店街が赤羽の商業の中心地になっていきました。

父は戦時中の企業整備で店を閉鎖され、履物店の将来や戦後の復興に意欲を失い、私たち家族は一年後に、両親の郷里である桐生に転居しました。私は小学校4年生になっていました。



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戦後70年 私の戦争体験(6)

●赤羽大空襲

私たちが学童疎開に発った後の、4月13日の夜、赤羽に大空襲があり、駅を中心に町の大部分が焼かれましたが、赤羽国民学校と赤羽銀座は免れました。私の家も焼けずに残りました。
それは周辺の家屋が、1943年(昭和18年)の国の防空対策で、焼夷弾攻撃から家屋の延焼をふせぐため、過密地帯の住居を「強制疎開」により、取り壊されていたためです。

8月のお盆が近づき、時々、赤羽国民学校からの物資を学童疎開先に届けに来ていた母が、疎開先での子どもの窮状を見かねて、私を連れて赤羽に一時帰宅しました。学童疎開の子どもたちは空腹から栄養失調になり、ガリガリに痩せていました。私は久しぶりにお腹を壊すほどご馳走(といっても、すいとんやジャガイモ類の代用食)を食べました。

赤羽1丁目の自宅に帰宅中の8月10日、午前10時頃のことです。突然、空襲警報のサイレンが鳴った途端、頭上をバリバリという轟音(ごうおん)と共に、地面が裂けるかと思うほどの激しい振動に逃げる間もなく、母と私はかろうじて布団をかぶり、お題目を唱えていました。その時は死を覚悟しました。
1時間ばかり続いたでしょうか。B29の空爆のあと外に出て、米機が落していったビラを拾いました。ビラには広島に原爆を落としたことが書かれていました。大人たちは広島に「新型爆弾」が落されたと噂をしていました。


爆撃を受けたのは、赤羽駅近くの高台(現在の赤羽台、桐ヶ丘団地周辺)に集中する軍の施設で、B29など150機が襲来し、赤羽を中心に王子や十条などの北区域に死者152人、重傷者144人を出しました。
後で知ったことですが、赤羽は陸軍の工兵隊や被服工廠・火薬庫・兵器庫等、軍の関連施設が集中している「軍都」として栄えた町でした。




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戦後70年 私の戦争体験(5)

学童疎開

東京大空襲に慌てて、一斉に学童疎開が開始されました。赤羽国民学校でも3月の終わり、群馬県勢多郡黒保根村水沼(現在は桐生市黒保根町水沼)の常(じょう)鑑寺(かんじ)に3年生から5年生までの40数名が疎開しました。私はまだ3年生でした。

常鑑寺は足尾銅山から山あいを縫って流れる渡良瀬川の上流で、当時は足尾線(現在はわたらせ渓谷鉄道)の水沼駅から続く坂道を上って、さらに数十段もあろうかと思われる急な石段を登った山の中腹にありました。常鑑寺の本堂の回廊からは、渡良瀬川水沼駅が眼下に見え、蒸気機関車が白い煙を吐いて通り過ぎて行きました。
引率の先生が2人、寮母さんが2人、お寺の本堂が疎開児童たちの生活の場になりました。朝6時になると和尚さんの勤行が始まり、もくぎょの音が起床の合図になりました。食事はだんだん少なくなり、水っぽいおかゆと梅干が一つ入ったアルミの弁当箱を前に、「箸(はし)とらば、天土(あめつち)御代(みよ)の御恵(おんめぐ)み、君(きみ)と親との御恩(ごおん)味(あじ)わえ」と唱和してから食べました。「君(きみ)」とは天皇のことです。


学童疎開の生活を一言で表わせば「空腹と虱(しらみ)と母恋し」です。夜になると虱のかゆさに悩まされながら、母恋しさに布団の中で泣きました。昼間は夏の炎天下で農家の畑の草取りや薪運びの作業をし、農家が用意してくれるさつま芋やじゃが芋のおやつと、帰り道、桑の実を見つけて頬張るのが何よりの楽しみでした。
たまに地元の小学校に行き、裁縫室の和室で勉強をしたり、童謡の「お山の杉の子」の合唱やお遊戯をしました。
「♪昔、昔、その昔、椎(しいの)木林(きばやし)のすぐそばに、小さなお山があったとさ、あったとさ♪」で始まる、当時の子どもの愛唱歌が軍歌だったということは、戦後になって知りました。

夕方、ぼんやりと回廊にたたずみ、水沼駅を通り過ぎて行く汽車を眺めて「おかあさ〜ん」と心の中で何度叫んだことでしょう。とうとう男の子と女の子が、それぞれに線路を走って脱走した事件がありました。


『戦争のなかのこどもたち』 前編
https://www.youtube.com/watch?v=v5aUx9gNM7Q




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戦後70年 私の戦争体験(4)

東京大空襲
1944年(昭和19年)、とうとう米軍のB29による東京初空襲をきっかけに、各地で空襲が激しくなっていきました。昼夜、不気味な空襲警報のサイレンが鳴り響くようになり、夜間は慌てて電灯を布で覆い、空襲解除のサイレンが鳴るのを息をひそめて待ちました。
この頃から子どもの遊び場だった空き地に防空壕が掘られ、防空頭巾や防毒マスクをつけて防空訓練が行われました。私の家のお店の中にも防空壕が掘られました。

学校では校庭に奉安殿(天皇と皇后の写真=御真影=と教育勅語を納めていた建物)が作られ、登校時に近所の年長者の児童が隊長になって、隊列を組んで登校し、奉安殿の前で最敬礼をしてから教室に入りました。また勤労奉仕として、早朝、八幡神社の清掃に出かけました。

天長節天皇の誕生を祝う日)や紀元節神武天皇の即位日、2月11日)の式典では、校庭に整列し、校長先生がうやうやしく読み上げる教育勅語を、直立不動の姿勢で首(こうべ)を垂れ、意味が分からないまま、ひたすら「御名(ぎょめい)御璽(ぎょじ)」の最後の言葉で終わるのを待ちました。式典の唯一の楽しみは、帰りに配られる甘いお供物でした。

1945年(昭和20年)3月10日、午前0時、就寝中の家族に突然の空襲警報のサイレンが鳴り響きました。慌てて電灯を消して、辺りをうかがっていると、2階から両親の叫び声、急いで駆け上がって夜空を見上げると、南東の空が真っ赤に染まり、ゆらゆらと赤い提灯(のように見えた)が幾筋にも連なって落下していくのが夜目にもはっきりと見えました。

あれはB29の焼夷弾だ!浅草下町方面だよ!と父の声。その時、風が吹き起こりました。「神風が吹いた!」と興奮した祖母の声に、私はガタガタ震える歯を噛みしめながら、本当に吹いたんだと信じました。”日本は、いざという時には神風が吹いて守られる”ということを聞かされていたからです。
しかし、あれは爆風だったのです。爆風が上空で竜巻となって下町一帯を焼き尽くし、10万人の死者と、100万人の罹災者を出した東京大空襲でした。



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戦後70年 私の戦争体験(3)

真珠湾攻撃から太平洋戦争へ

1941年(昭和16年)12月8日、日本軍による真珠湾攻撃が起こると、米英が日本に宣戦布告をし、太平洋戦争へと突き進んでいきました。国内では一気に戦時体制になり、人々の生活はだんだん暗く苦しくなっていきました。
食料や衣服、燃料など生活に欠かせない物も自由に手に入れることが出来なくなり、政府から配られるキップを持って配給を受けるようになりました。それでも私たちは「欲しがりません勝つまでは」とか「ぜいたくは敵だ」「パーマネントはやめましょう」といったスローガンを唱えて、不自由な生活に耐えていました。

配給・切符制になったものと時期 


1943年(昭和18年)4月、私は赤羽国民学校に代用品の紙製のランドセルを背負って入学しました。この頃になると日本軍の敗色が濃くなり、侵攻していた南洋諸島や太平洋上の島々からの敗退や玉砕が進みました。
一方、国内では学校の軍国主義教育が強化されていきました。私の1年生の国語の教科書は「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」「ヘイタイサン ススメ ススメ トテチテタ」でした。


校庭では児童の行進や竹槍、匍匐(ほふく)前進(ぜんしん)の訓練が日常となり、食料不足を補うため、シャベル持参で校庭に畑をつくり、ジャガイモやカボチャの苗を植えました。

この頃はまだ本土への空襲がなく、母に連れられて、世田谷の母の叔母の家に行った帰りには必ず、新宿角(つの)筈(はず)(現在の新宿3丁目)の劇場「ムーラン・ルージュ」に寄って、最後の一幕を立ち見席で観劇しました。
中に入ると、華やかなスポットライトを浴びた舞台に、人気スターの明日待子(あしたまちこ)さんや踊り子のレビューが、軽快なバンドのリズムに乗って躍動していました。軽演劇あり、ショーありで、ひととき戦争の憂さを忘れさせてくれました。この劇団からは、戦後に有名な俳優・女優が活躍しました。




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戦後70年 私の戦争体験(2)

●戦争の足音

そんな賑やかな暮らしの中で、日中戦争は着々と進んでいました。
その頃は次々と戦果を挙げ、「紀元(皇紀)2600年」(昭和15年)の記念行事と重なって、戦勝を祝う花電車を見に、祖母と王子の飛鳥山公園に行き、提灯(ちょうちん)行列に加わりました。

しかし、4、5歳頃になると、街の暮らしに、少しずつ変化が起きてきました。
いつしか商店街から明かりが一つ二つ消え、お店が閉ざされていきました。人通りもまばらになり、寂しい街並みになっていきました。
私の家も店を閉じ、2人の番頭さんも出征していきました。父は身長が低いため丙種合格で兵役を免れました。その代わりに赤羽警察の消防団(警防団)として、防空監視や空襲の後処理に駆り出されていました。
最後に残ったレストランは雑炊(ぞうすい)食堂になり、長い行列が出来ていました。

営業していた映画館では、エノケンやロッパの喜劇やチャンバラ映画とセットで、戦地の連勝ニュースが大きく流されていました。私は祖母につれられて毎日のように映画館に行っていました。



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