戦後70年 私の戦争体験(4)

東京大空襲
1944年(昭和19年)、とうとう米軍のB29による東京初空襲をきっかけに、各地で空襲が激しくなっていきました。昼夜、不気味な空襲警報のサイレンが鳴り響くようになり、夜間は慌てて電灯を布で覆い、空襲解除のサイレンが鳴るのを息をひそめて待ちました。
この頃から子どもの遊び場だった空き地に防空壕が掘られ、防空頭巾や防毒マスクをつけて防空訓練が行われました。私の家のお店の中にも防空壕が掘られました。

学校では校庭に奉安殿(天皇と皇后の写真=御真影=と教育勅語を納めていた建物)が作られ、登校時に近所の年長者の児童が隊長になって、隊列を組んで登校し、奉安殿の前で最敬礼をしてから教室に入りました。また勤労奉仕として、早朝、八幡神社の清掃に出かけました。

天長節天皇の誕生を祝う日)や紀元節神武天皇の即位日、2月11日)の式典では、校庭に整列し、校長先生がうやうやしく読み上げる教育勅語を、直立不動の姿勢で首(こうべ)を垂れ、意味が分からないまま、ひたすら「御名(ぎょめい)御璽(ぎょじ)」の最後の言葉で終わるのを待ちました。式典の唯一の楽しみは、帰りに配られる甘いお供物でした。

1945年(昭和20年)3月10日、午前0時、就寝中の家族に突然の空襲警報のサイレンが鳴り響きました。慌てて電灯を消して、辺りをうかがっていると、2階から両親の叫び声、急いで駆け上がって夜空を見上げると、南東の空が真っ赤に染まり、ゆらゆらと赤い提灯(のように見えた)が幾筋にも連なって落下していくのが夜目にもはっきりと見えました。

あれはB29の焼夷弾だ!浅草下町方面だよ!と父の声。その時、風が吹き起こりました。「神風が吹いた!」と興奮した祖母の声に、私はガタガタ震える歯を噛みしめながら、本当に吹いたんだと信じました。”日本は、いざという時には神風が吹いて守られる”ということを聞かされていたからです。
しかし、あれは爆風だったのです。爆風が上空で竜巻となって下町一帯を焼き尽くし、10万人の死者と、100万人の罹災者を出した東京大空襲でした。



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