戦後70年 私の戦争体験(3)

真珠湾攻撃から太平洋戦争へ

1941年(昭和16年)12月8日、日本軍による真珠湾攻撃が起こると、米英が日本に宣戦布告をし、太平洋戦争へと突き進んでいきました。国内では一気に戦時体制になり、人々の生活はだんだん暗く苦しくなっていきました。
食料や衣服、燃料など生活に欠かせない物も自由に手に入れることが出来なくなり、政府から配られるキップを持って配給を受けるようになりました。それでも私たちは「欲しがりません勝つまでは」とか「ぜいたくは敵だ」「パーマネントはやめましょう」といったスローガンを唱えて、不自由な生活に耐えていました。

配給・切符制になったものと時期 


1943年(昭和18年)4月、私は赤羽国民学校に代用品の紙製のランドセルを背負って入学しました。この頃になると日本軍の敗色が濃くなり、侵攻していた南洋諸島や太平洋上の島々からの敗退や玉砕が進みました。
一方、国内では学校の軍国主義教育が強化されていきました。私の1年生の国語の教科書は「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」「ヘイタイサン ススメ ススメ トテチテタ」でした。


校庭では児童の行進や竹槍、匍匐(ほふく)前進(ぜんしん)の訓練が日常となり、食料不足を補うため、シャベル持参で校庭に畑をつくり、ジャガイモやカボチャの苗を植えました。

この頃はまだ本土への空襲がなく、母に連れられて、世田谷の母の叔母の家に行った帰りには必ず、新宿角(つの)筈(はず)(現在の新宿3丁目)の劇場「ムーラン・ルージュ」に寄って、最後の一幕を立ち見席で観劇しました。
中に入ると、華やかなスポットライトを浴びた舞台に、人気スターの明日待子(あしたまちこ)さんや踊り子のレビューが、軽快なバンドのリズムに乗って躍動していました。軽演劇あり、ショーありで、ひととき戦争の憂さを忘れさせてくれました。この劇団からは、戦後に有名な俳優・女優が活躍しました。




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