戦後70年 私の戦争体験(2)

●戦争の足音

そんな賑やかな暮らしの中で、日中戦争は着々と進んでいました。
その頃は次々と戦果を挙げ、「紀元(皇紀)2600年」(昭和15年)の記念行事と重なって、戦勝を祝う花電車を見に、祖母と王子の飛鳥山公園に行き、提灯(ちょうちん)行列に加わりました。

しかし、4、5歳頃になると、街の暮らしに、少しずつ変化が起きてきました。
いつしか商店街から明かりが一つ二つ消え、お店が閉ざされていきました。人通りもまばらになり、寂しい街並みになっていきました。
私の家も店を閉じ、2人の番頭さんも出征していきました。父は身長が低いため丙種合格で兵役を免れました。その代わりに赤羽警察の消防団(警防団)として、防空監視や空襲の後処理に駆り出されていました。
最後に残ったレストランは雑炊(ぞうすい)食堂になり、長い行列が出来ていました。

営業していた映画館では、エノケンやロッパの喜劇やチャンバラ映画とセットで、戦地の連勝ニュースが大きく流されていました。私は祖母につれられて毎日のように映画館に行っていました。



★  ★  ★