戦後70年 私の戦争体験(1)

●私の生いたち

1937年(昭和12年)1月、私は東京都北区(当時は王子区)赤羽で生まれました。1937年といえば、中国の盧(ろ)溝(こう)橋(きょう)で日中軍が武力衝突し、日中全面戦争(支那事変)へと突入していった年です。さらにその年の12月には、日本軍による南京大虐殺事件が起こっています。
私の10歳までの成育期は、まさに日本が日中戦争から太平洋戦争へと突き進んでいく年月と重なっています。
私の家族は両親と祖母の4人で、私は一人っ子でした。当時「赤羽銀座」という、赤羽で一ばん賑やかな商店街の中ほどで、両親は履物店を営んでいました。商店街は当時、王子電車(都電=チンチン電車)が走っていた現在の北本通りに並行しており、埼玉県の川口から新荒川大橋を通る岩槻街道と交差する、赤羽交差点の商店街入り口には「赤羽映画劇場」がありました。
当時の履物といえば、子どもも大人も下駄や草履が主流で、お店は繁盛しており、2人の番頭さんもいて、盆・暮れの時期には、お店はお客さんでごった返していました。商店街には呉服屋さん、瀬戸物屋さん、氷屋さん、、小間物屋さん、あんみつ屋さん、米屋さん、紙屋さん、提灯屋さん、菓子・パン・洋品・花屋・文房具、靴屋、薬屋、おもちゃ、駄菓子、レストラン、病院など、生活全般に必要なお店が揃っておりました。
私は近所の幼馴染みと、近くの荒川の土手や放水路の川べり、赤羽駅近くの高台の八幡神社や、商店街裏の路地や原っぱが遊び場でした。


現在の荒川放水路



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