女は子どもを産む機械?
香りと藍色が美しい、ムスカリ
新座市の東北コミュニティセンターでは、5月の12、13日(土日)の2日間にわたってコミセンまつりを開催します。
私も参加している女性セミナー懇談会では、次のような内容のパネル展示を準備しています。
先ごろ(1月)、柳沢厚生労働大臣が「女性は子どもを産む機械、一人頭で頑張ってもらうしかない」と発言し、多くの女性の怒りとひんしゅくを買いましたが、その柳沢発言に反論するタイムリーな内容になりました。
「戦前戦後の子産み事情−お国のために産みますか?」
“産めよ増やせよ”キャンペーン
1989年の合計特殊出生率(女性1人が生涯に産む子どもの数)が、戦後最低の1.57人になったと発表されて以来(1.57ショック)、少子化を憂慮する声と同時に、「産めよ増やせよ」のキャンペーンが、あちこちで行われるようになってきました。
「高齢者の扶養の負担が増加する」「日本経済が低下する」というのが主な理由です。
女性の人権という観点から「産みたい時に産めない」という状況があるのは問題ですが、産めない女性や、産みたくない女性にまで、産むことを強制したり、 “産むことは女の幸せ”“女性は子どもを産んで1人前”、などというメッセージが込められているのは問題です。
なぜ、いま子どもが生みにくいのか
出生率が低下する背景には、子どもを産みたくても、埋めないいろいろな女性たちの事情があります。
「女性が高学歴になったから子どもを産まなくなった」なんてピントの外れたことを言う政治家もいます。
世論調査によると、子どもを育てるうえで「教育にお金がかかる」「進学やしつけなど子育ての気苦労が多い」という回答が50%を上回っています。
経済的負担と母親の精神的負担が、子どもを産みにくくしている要因だと言えるでしょう。
それだけではなく、労働時間が長すぎるとか、収入が低く住宅が狭い、結婚できない若者のワーキング・プアなどが原因で、出産ができないという現状があります。
女性が働きながら子どもを産み育てられる環境も整えられていませんから、男女とも、労働時間の短縮、育児休業・育児時間の実施、保育所の増設など、改善されなければならない問題はたくさんあります。
戦前の“産めよ増やせよ”
日本で初めて人口増加政策が打ち出されたのは明治時代、国を強くするための兵力や労働力を確保するために、人口妊娠中絶を禁じた「堕胎罪」が1880年に制定されました。
戦時中は「産めよ増やせよ」のスローガンのもとで、避妊を禁止された女たちは、生命や健康を犠牲にしてまで、たくさんの子どもを産むことを余儀なくされました。
戦後の産児制限と優生保護法
1945年、戦争に負けると、国は経済復興のため、出生率を下げる必要に迫られました。
人口妊娠中絶が「優生保護法」によって、条件付きで合法化されると、食料や住宅に事欠いた女たちは、産める状況を要求することもできず、妊娠中絶をくり返し、その結果、わが国は出生数の急速な減少に成功し、経済は立ち直ったのです。
出生率低下と人口増加政策(少子化対策)
1960年代に入ると、若年労働力の不足から、再び出生率増加政策が浮上します。
72年には、優生保護法の“中絶の「経済的理由」”を削除する案や、89年には、中絶が認められる時期を“満23週以前から22週未満”に改定されました。
これらは、日本の労働経済の動向と連動して、出生率低下に危機感を持った動きに他なりません。
●人口政策のあゆみ
年月 | 人口政策 |
---|---|
1880年 | 堕胎罪制定(現刑法になったのは、1907年)。この時代の富国強兵政策 に、人口の増加が必要とされていた。 |
1940年 | 国民優生法公布。遺伝病、精神障害者などに対する優生手術(不妊手術)の実施と、健全者を増加させる目的。 |
1941年 | 人口政策確立要綱(早婚、多子の奨励、避妊の禁止など)閣議で決定。兵力と労働力を産ませるための、いわゆる「産めよ殖やせよ」政策。避妊・人工妊娠中絶は、事実上できない状態になった。 |
1945年 | 敗戦。このときから出生数は急増し、経済を立て直すために、出生抑制が必要と言われだした。 |
1948年 | 優生保護法制定。国民優生法をもとに、「不良な子孫の出生」の防止と、母性保護を目的とし、優性手術と人工妊娠中絶の適用条件を定めた。 |
1949年 | 優生保護法による、人工妊娠中絶の適用条件に「経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」が追加される。このとき、避妊法はほとんど普及していなかったので、生活苦にあえぐ女性たちは、妊娠の中絶を繰り返すようになり、わが国の出生抑制政策は成功する。 |
1968年 | 母子保健対策懇話会の意見書において、出生率の低下が、労働不足、経済発展の阻害、民族の老化を招くとして問題視される。 |
1969年 | 人口問題審議会、最生産力低下を問題視して、「日本の女性は平均2.1人の子どもを産む必要がある」との中間報告発表。 |
1972年 | 優生保護法の一部「改正」案(政府提案)国会に提出される。人工妊娠中絶の許可条件より、??「経済的理由」を削除し、「母体の精神または身体の健康を著しく害するおそれ」に改め、??「胎児が重度の精神または身体の障害の原因となる疾病または欠陥を有しているおそれが著しいと認められる」場合を追加する。(1973年にも出されたが、廃案となった。) |
1976年 | 優生保護法による人工妊娠中絶の認められる時期を「通常、妊娠第8月未満」から「通常、妊娠第7月未満」と改訂(事務次官通達)。 |
1982年 | 参議院予算委員会で、優生保護法「改正」(「経済的理由」の削除)を要求する質問が出る。参議院選挙を前に「改正」の動き活発になる。 |
1986年 | 参議院予算委員会で、中絶時期短縮についての質問が出たのを契機に、厚生省保健医療局精神衛生課長より、日本産科婦人科学会に非公式の照会があり、同学会では胎児生育限界についての検討を開始。 |
1989年2/18 | 厚生省公衆衛生審議会優生保護部会が、厚生大臣の諮問に対して、優生保護法によって認められる人工妊娠中絶の時期を、現行の「妊娠満23週以前」から、「妊娠22週未満」に、2週間短縮することを適当とする答申を提出。 |
1990年 1/ | 「これからの家庭と子育てに関する懇談会報告書」少子化は高齢化扶養の負担の増大や経済社会の活力の低下など、憂慮すべき事態をもたらすものと考えられる。」 |
3/20 | 「優生保護法により、人工妊娠中絶を実施する時期の基準を、平成3年1月1日より、妊娠満22週未満に改める」(2週間の短縮)との次官通達が各都道府県に出される。 |
6/9 | 厚生省の人口動態統計で、合計特殊出生率が1.57に落ち込んだと発表され、「超高齢化社会」への危機感をあおる報道などが相次いだ。 |
6/11 | 自民党四役会議で、「出産奨励策として、産んだ子どもの数に応じ、主婦に年金を割り増し給付してはどうか」との発言があった。 |
6/12 | 自民党政調審議会・総務会で、受胎調節実地指導員に避妊用医療品の販売を認めた、優生保証法39条の延長に際し、出生率低下を理由に、難色を示す意見が出た。 |
6/12 | 長寿社会対策関係閣僚会議で、「女性の高学歴化が出生率を落としているのではないか」との発言 |
8/10 | 「健やかに子どもを産み育てる環境づくりに関する関係省庁連絡会議」初会合。「子どもが健やかに生まれ育つための環境づくり推進会議」(厚生省)発足。 |
2002年 | 保健師助産師看護師法で、「助産師」に改称 |
2003年 | 少子化社会対策基本法、次世代育成支援対策推進法 |
女のからだは女が決める
女は子どもを産む機械 ?
私たちは、女の生き方や、子どもの産み方、家族のあり方の多様性が認められるべきだと主張します。
国やメディアをとおして行われている「多子と大家族」「女の勝ち組、負け組」キャンペーンや、「結婚し子ども2人以上が健全」という再度の柳沢発言は、“女性がいつ、何人、子どもを産むか、産まないか”を決める自己決定権(リプロダクティブ・ヘルス・ライツ=基本的人権)を侵害するものです。女のからだは子産みの道具ではありません。
これらは、非嫡出子、ひとり親世帯、子どもを産まない・産めない女たち、性的マイノリティ(トランスジェンダー、同性愛者)の人たちなど、多様な家族を認めない差別にもつながるものです。